もう一度インターネットをする気持ちになった

先日SUZURIというウェブサービスコミティアに出展し、併せて冊子を作ることとなった。その企画者に文章を書け、と迫られた。なんでも僕が暇そうかつ断れなさそうだったからみたい。以下はその冊子「スリスリコミック」に寄せた原稿です。

 

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「繋がれば、分かりあえば、もう怯えなくていい」

 

本当の理解とは何か。繋がった気がした瞬間は永続するのか。

いつだって僕は怯えている。最近のインターネットからは、現実が見え過ぎる。

 

インターネットはかつて広大で、可能性に満ち、現実の雑音をくぐり抜けた先にあるワンダーランドだった。一部の人にとっては今もそうなんだろう。だが僕のインターネットは、どんどん道具になっていった。中学校に上がり、初めて鉛筆からシャープペンシルに持ち替えた時のような高揚感はほぼ失われ、季節のように当然に巡る。

 

ピーヒョロロ、ピーガガガ、と始まる月10時間限定のインターネットが僕の原体験だ。今ではチャットも、ファンサイトのBBSも、吉岡美穂の水着画像ですら皆、「若い時は…」なんてボロ雑巾のような"枕"で始まる酒の肴になってしまった。心底絶望する。小中学生メル友ステーションで知り合った可愛い女の子は、僕と他クラスメイト10人に同じメッセージを送るロボットだった。情報の先生は真顔で「ネチケット」と言っていた。阿部寛みたいなサイトがいっぱいで、それが当然だった。本当なんだ。

 

あの頃の遊園地のようなワクワクも、ヒヤヒヤも、もうここには微塵も無い。僕は気にしている。このツイートが誰かを傷つけやしないか。このはてなブックマークで僕の浅い底が見えやしないか。彼女に好きな人が居ることを知ってしまいやしないか。そしてこの考えに足を踏み入れる度に、中二階から別の僕が覗き込み、「なんて自意識過剰で愚かなんだ」と吐き捨てる。その度に「ごめんなさい」と心で百回唱えることが僕の最近のインターネットである。

 

結論から言うと、僕は分かりあえなかった。インターネットの中に人格を立て、それをじっくりと育てることは、僕が好きなRPGゲームのレベル上げという行為に似ていた。MMORPGとしてTwitterはとても優秀だった。大阪の留年ぶちかまし大学生だった僕は今、東京でインターネットの会社に勤めている。エラい出世である。それもこれもインターネットで新たにキャラクターを作り、演じ切ったからだ。jitsuzonというアカウントには自己が散在しているものの、全くもって僕ではない。くだらない自虐を投下し、哀れみ半分の星をつけてもらう。時にはポエムを流し、恋に恋する乙女がハートをつける。「オフ会をしよう」だなんて言葉は他人事すぎて的を得ず、自分を切り売りすることも大して重大ではなかった。

 

ただ悔しいのは、僕は本当に親友と呼べる人が居ないんだ。双子のように全てを疎通しあう人が居ない。相手が期待する僕は、本質とは大きく異なってばかりだ。それでも僕は彼に会い、彼女にリプライを飛ばし、正気かどうか分からない他人に星をつける。どうやっても僕はアカウントになれないし、アカウントから本当の彼らはわからない。それに気付いてしまっている。もう諦めてしまっている。そこには遣る瀬も、寄る辺も無い。でも諦念の一つには、ずっと信じてしまうんだろうな、という漠然とした光もある。自由でなくなったのは僕であり、決してインターネットではない。

 

「欲しいものは、作ればいい。」(SUZURIのWebサイトより)

 

言ってくれるよなぁ、とは思う。いつか誰の手でも無い、自分自身の手でエデンをつくれる。残骸だらけで足場が悪いこの場所に、綺麗な花が咲く日が来る。夢想的なのはわかっているけど、行動の不足を咎めるのは今じゃない。思い出すべきなのは、もっと繋がっていたいと思った10時間と1秒目ではないだろうか。初めてハンドルネームを呼ばれた時に感じた世界の拡がりではないだろうか。このSUZURIのコピーは希望として十分かはわからない。だけど、それは1つのコメントを思い出させる。為す術が無かった僕のインターネット状況を吐露したブログについた、会ったことも無い人からのコメント。それは当時の僕に余るほどの希望をくれた。まるで数回の人生を共にした親友のようだった。僕からまだ見ぬ皆さんへのコメントでもある。

 

「約束の地をまたつくろう」

 

SUZURIコミティア出展に寄せて - jitsuzon