それでも世界は美しい - 映画「聲の形」に寄せて

※たまたま見てしまった人へ。ネタバレがあります。注意してください。

 

僕は山田尚子監督の「たまこラブストーリー」が大好きだ。

青春を過ごす登場人物の瑞々しい動作を、暖かな優しい空気と風景が包む、人の輝きも儚さも全て受け容れる愛に溢れた作品だった。ストーリー自体は複雑なドラマがあるわけではなく、アニメなのに圧倒されるカメラの使い方と、背景美術の綺麗さ、登場人物の生々しいほどの存在感が同居していてかつエンタメとして成立している。文化庁メディア芸術祭でも「アニメのひとつの到達点」と評価される完璧な作品だ。当然、僕は同監督の「聲の形」を観に行くことになっていた。

2016年9月22日木曜祝日、僕は職場の同僚たちと映画館へ足を運んだ。公開から数日が経過し、ヒットかどうかがだいたいわかっていたころだった。満席の劇場でギリギリに到着した僕たちは、この後の予定なんかを話しながら上映を待った。僕は映画の後に合流する先輩に借りた本をボロボロにしてしまったので、書店で新品に変えるつもりだった。どこへ買いに寄ろうかと考えながらも、劇場の明かりが落ちるのを急かすように、僕は携帯の電源を落とし鞄にしまった。

言い訳を少し。僕は原作を読んだことが無かった。ネットで話題になっていたので大まかな設定は知っていたけど。「聴覚障害者の女の子と目つきの悪い男の子がいて、徐々に心を通わせていく」みたいな話だと思っていた。大きくは間違っていない。だが、甘く見ていた。というよりも、浅く見ていた。

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映画『聲の形』公式サイト ©大今良時講談社映画聲の形製作委員会 

 

暗闇に水滴が落ちる、暗いトンネルの向こうに光が見える。抽象的なイメージからその映画は始まった。

 

「the shape of voice」

「a point of light」

 

文字がその上に浮かぶ。ただ、言葉としてはまだ抽象的だった。

形がつくられていく129分の本編で、無防備だった僕は、自分の奥にしまった、もう最近は見ていない、けれどあるのは知ってる感情を引き摺り出され困惑した。はっきり言って混乱した。

 

「死にたい」

 

主人公とヒロインが悲しくも抱えてしまっていた感情と同じ。僕は自分勝手なその感情を包んだ袋に穴が空き、どんな水よりも速く浸透していくのがわかった。

輪郭はないけど克明に、滲むように内面に広がっていった。思春期の時に初めて抱いたその気持ちは、とても独りよがりだった。他者とのコミュニケーションに絶望し、原因を全て自分の中に求めて、一番簡単な帰結にボロボロになって顔を濡らしながら進んでいく。14歳にピークを迎える半径自転車30分くらいの狭い世界での絶望を、つらく苦しく悲しい気持ちを、僕は捨てられず付き合い続けていた。折に触れて思い出しては、爆発しないようにその場で少し水を抜いた。大学時代に愛に触れて昇華できたと思っていたけど、全然そんなことはなかった。数年振りに、腐れ縁の気持ちに再会してしまった。

映画は本当に良かった。aikoが「恋をしたのは」という主題歌を歌っているせいもあってか恋愛の話、あるいは題材の1つとして扱われる障害周辺の話かと思われがちだが、そんなことはない。これはコミュニケーションの話で、主人公の将也がどう自分を赦して他者と向き合っていくかという物語だ。分かり合うなんて程遠いけど、それでも繋がりたい、そういったことが描かれている。キャラクターたちの言動は鋭利に僕の弱いところに手を伸ばす。けれど、風景や情景は、天井も底も無く愛でキャラクターたちを包んでいて、絶望ではない、希望を感じる作品だった。傑作で済むようなレベルではなかった。 

観終わって、頬を滲ませながら僕は途方に暮れていた。映画は終わった、けれども鑑賞時に沁みてきた「死にたい」という感情が消えず、放っておけばすごい勢いで広がりそうだった。打ちひしがれていた。幸いその時は同僚と一緒にいたので思索の旅に出るようなことは無く、予定通り本屋に行ったり、夕食を食べたり、笑って幸福に過ごした。

でも感情はあまり引っ込んでくれていないようで、次の日も、その後も、ずっと存在感が残っていた。この感情に向き合わなきゃいけないな、と考えながらも僕は目の前の仕事や出来事を手こずりながらこなした。手こずっていたのは、絶えず緊張感があったからだ。風船のように膨らんでいる感情の袋に、ふとした瞬間針が触れたら、弾けるように散乱してしまう。堰を切ったように止めどなく溢れてしまう。滂沱として涙は流れたままで、恥ずかしいくらい声も上げてしまうかもしれない。その瞬間を恐れつつも、待っていたんだと思う。用事のあった三連休の初日を終えた後、僕は残りの二日の中で向き合うことにした。単に暇だったからとか、好きなブログの更新がその日無かったとか、そういう些細な理由もあったと思う。

 

「僕は僕が嫌いだ」

 

漫然とした希死念慮の理由を深く掘っていくほど、僕は本当にダメなやつだとわかっていった。その時に書いた言葉のスケッチを、そのまま載せておく。

 

もしかすると、僕は死なないために生きてるのかもしれない。生きるのに理由なんているもんか、と思っていたけど、そうなのかも。放っとくと死んでしまうんだと思う。一人暮らしになったことも影響しているのだろうか。働いて社会と繋がって、仕事で認められて必要とされようとする。友達と酒飲んでもてなすように笑かして必要とされようとする。愛する人に愛されようとする。まるごと許してもらおうとする。教養を高めようとする。快楽に負けないようにする。怠惰に歯向かおうとする。全部死なないためなんだ。僕は何もしないとどんどん堕ちていく、マイナスに慣性の働いた人間なんだと思う。昔も今も僕は全然価値のある人間で無く、気をつけて真人間になる努力を続けないと、害悪にすらなってしまう。度々縄を締め直さないといけない。思春期にガッツリ否定されたこと、思ったより僕が打たれ弱かったこと、それでも踏ん張る支えや自信が自分に無かったこと、そいつらがずっと尾を引いてる、というか変わっていない。乗り越えるとかそういうものではないんだ。絶対に存在する。消せない。どうにか逃げ回り、麻酔を打つしか無い。僕はありのままでは本当に必要とされない、みんなに嫌われる人間になってしまう。なんとか抗っていかなきゃいけないんだ。だって人に必要とされないのは本当に辛いから。不要だと、疎ましいと、拒絶されるのは本当に苦しいから。自分は価値が無い、いちゃいけない人間だってわかってしまうのは本当に悲しいから。もう、そんなのは嫌なんだ。本当のことを言えばそんなの知りたくなかったよ。でもこう出来ちゃったんだから仕方ない。なんとか教師を見つけてそこに近づいていくしかないんだ。孤独になって無気力になって自死するまでにそんなに距離はないだろう。

 

自己愛がそれなりに植え付けられてしまっている。ここは親に感謝する場所かもしれない。僕は親にあまり愛されていないと思っていたが親は僕を愛し、僕はそれに応えていないだけなんだ。愚かだなぁ。それでその自己愛と現実の冴えない僕、ともすれば害になりそうな僕とのギャップでよく傷つく。本当は卑小な人間なのに無駄にプライドみたいな自己愛、傲慢さがあって、当然打ち砕かれるわけだから落差がすごい。高層マンションからコンクリートに叩きつけられるようだ。自分の認識も自己愛部分に近いのではなく現実寄りなため、期待もしていないし満足させてやろうともしない。理性的には自己否定しか出てこない。それでも深層では自分は愛されるべき人間だという感覚が存在しているのだろう。僕が死にたくなるのはそのギャップに気付かされた時だ。あと、自己否定が当たり前になっていて、それも深層にできてしまっていた。自己愛との融合はあまりせず、存在している。ふとした時、僕は死にたい側の人間であるのだと実感する。自己愛は生きるには届かず、淡い希望程度であった。

 

以上が僕の「死にたい」を確かめる工程だった。結論を出さなくてはならないなら、「僕は死んだほうがいい」ということになる。この時は本当に悲愴で、生活するのも嫌だった。中でもボディソープを詰め替えるという行為が苦痛で仕方なかった。「生きるつもりかよ」という気持ちになったんだ。14歳から考えてることを、なんでまた28歳にもなってやってるんだよ、という失望もあった。30とか40になっても毛布に泣き声押し付けてるのを想像したら本当に惨めな気持ちになった。 

この気持ちを着地させるため、映画の時に感じた気持ちの輪郭をもっとはっきり掴みたくて、藁をも掴む思いで「聲の形」の原作漫画を読んだ。作品に対してたくさんの情報が補完され、テーマは同一だともわかり、登場人物たちに乗せながら感情を少しずつ整理することができた。それでも、まだわからなかった。僕はもう一度、きっかけとなった映画版「聲の形」を観に行くことにした。原作よりも大きな宇宙的サイズの愛がそこにはあって、僕はそれに包まれることで許されようとしていた。許されなくても、もう一度触れることでわかることがあるかもしれないと思った。当時の僕はもう壮絶で、飛び込まないか不安で電車に乗りたくないくらいだった。気を抜いたら死んでしまう。そうなってもおかしくないな、と他人事のように思っていた。自分を追い込みすぎた。

鑑賞して、僕はまた何度も涙を流し、同じ感情をリフレインした。それでも「生きよう」に届くほどの希望を見つけられなかった。愛は確かにあったし、絶望から一縷の希望も見えはしたのだけど。まだ足りない、そう思って関係者のインタビューを読み漁った。そこで愛の理由や、作品のどこに表現として現れているかを言葉から認識できた。

この子たちは明日を生きるのも辛そうなくらいすごく悩んでいますよね。でも一歩引いて見た時に、その子たちがいる世界ごとはそんなに絶望感がある訳じゃない。ちゃんと生命は宿っていてお花は咲くし、水も湧くし。彼らがいる世界全てが悩んでいたら嫌だというか、彼らがパッと見上げた空は絶対に綺麗であって欲しいと思ったんです。水だったり空気だったり生命だったり根源的なものは、前向きな感情を持って描きたかったので「ちゃんと綺麗なものとして描こう」と思っていました。あと、見ている方的にも居心地の良い映画でありたいという思いがありました。

「音・色・動きを付けることで、 辛い想いのもう一歩先の出口まで描きたい」 映画『聲の形』監督・山田尚子インタビュー - インタビュー&レポート | ぴあ関西版WEB

 

僕は下を向いて、耳を塞いで、相手の聲から本当を知ろうともせずに閉じこもっていた。もし僕が生きていくなら、真人間になるための努力を続けつつ、真心でコミュニケーションをしようと思った。そして、周りをちゃんと見て、世界は美しいんだと讃えられるようになりたいなと思った。二回目の映画が終わった後すぐにはそんな気持ちにはならず、もがいていたんだけど。今もまだもがいているし。二回目の後は場所が新宿だったから歌舞伎町に片足突っ込んだ焼き鳥屋で独りで飲んだ。鶏皮と一緒に反芻して咀嚼しようと記事を読み漁っていたのはその時だ。

酔いの足で、早速行動した。まずは顔を上げて向き合うことが僕には必要で、昔からろくに家族とコミュニケーションをとっていなかったから、酔ってる時にしては初めて連絡をした。そしたら母と兄にすごい心配された。「僕は本当にダメで、ごめんね」なんてメッセージが来たら、そりゃそうか。でも二人とも優しく、あぁこれが僕が背いてた世界なんだと、本当に情けない人間だな、矮小で卑小だなと感じたのだった。少しずつでもいいから、なんとか報いて感謝していかないとな、もっと誠実にならないとな、と、それくらいは思えるようになった。

今は心が本当に落ちすぎたので、急な負荷をかけないようにリハビリのつもりでゆるやかに気持ちを整理している。他者とのコミュニケーションの先に自分を許せる可能性があるのか考えたりとか、世界の美しさに目を向ける訓練を始めた。「聲の形」で将也が生まれ直せたように、僕もできるかもしれない。新たな愛っていう一発逆転は無いかもしれないけど、自分が自分のことをまあいいんじゃないって思えるくらいには肯定してやりたいし、でもやっぱできれば他人に愛されたい。そして、自信を持って人を愛したい。僕みたいなことを考える暇が無いくらい忙しく幸せにしたい。つらくっても大丈夫って思えるくらい安心させてあげたい。ちゃんと話も聞くし、しようともする。聲の奥にある気持ちをわかろうとします。

僕は人間はつらく、苦しく、悲しいもの、それでいていじらしいものだと思っている。人生も結構大変かな。でも、人間の外の世界はやっぱり全てを肯定しているし、美しいものや瞬間はたくさんあるのだと映画と一連のことを通して意識できるようになった。一歩先、希望の小指くらいは見えてきた。この先とても大変なことがあるかもしれないしたぶんあるんだろう。どこかに飛び込んでしまいたいほど悲しいことがあっても、僕は、それでも世界は美しいということは忘れずにいたい。14歳の時、僕はどうにもできなくなって自分の住んでいるマンションの最上階に行ったことがある。衝動的で、覚悟は無かったけど。エレベーターのドアが開き、焦るように柵へと歩いた。下を覗き込むとやっぱりとても高くって、単純に怖くなった。昔なわとびをした空間がとても小さくなっていた。でも怖く感じることにどこか安心して、ふと顔を上げると、真っ直ぐ最上階から見る景色は夕陽がとても綺麗だった。抗う隙間が微塵も無いほどに輝いていた。もっと綺麗に見える場所を探し、時間にしては10分くらい、強いオレンジ色の光と優しく薄い雲のグラデーションを見つめた。その時も、世界は美しかったんだ。ようやく思い出せた。

塞ぎ込んでいた間に郵便受けに溜まっていたチラシを片付けて、パンを食べて、朝にはもう少し寝たいなと眠気を感じながら、また一日を始めることにした。木々が揺れる公園も、電車から見える家並も、たくさんのうねった道路も、見つめると悲しそうな表情はしていなかった。生きるのを少し手伝ってくれそうに思えた。