大人になるということ
ここ数ヶ月、生活の隙間で考えていることが「大人になるってどういうこと?」という問いだ。小学1年生が上目遣いで聞いてきそうな素朴な疑問が、31歳を過ぎて何のきっかけも無くふと湧き上がってきた。「日本では20歳を超えたら」なんて野暮な答えを許せるわけもなく、かといって使命感も無くぼんやりと答えを考えている。
31歳といえば成人であり、99%くらいで大人判定をもらえると思う。これからも「大人」になり続けるわけなので、どういうふうに加齢したいか、という願いを込めてエントリを書いてみる。
感受性
止まらないあらゆることへの好奇心、帰ってこれないほど拡がる妄想、激しい世界への怒り。高校生くらいまでは少なくともそれらのような青天井の鋭敏な感情と感覚を持っていた。今でもまだまだあるぜ!と威勢よくしたいけど、随分マイルドになってしまった。もちろん新しい音楽を聴いて感動したり、映画のワンシーンで涙を流したりはするし、死んでしまったわけではない。いわゆる「感受性」が低くなってきているのだけど、筋力の衰えや記憶力が下がったみたいな「単に生物としての機能が…」という話ではないはずだ。ギターを弾くと指の皮が硬くなるような、慣れによるしょうがない反応もあるとは思うけど。
知ること、わかること、想像すること
今の僕が鮮烈なこころに彩られていた日々と異なるのは、当時より多くのことを知っていて、わかっていて、想像できるということだ。たとえばより多く動物の種類を知っている。ちょうど良い他人との話題がわかる。上司のしてほしいことが想像できる。確かに初めて触れたり空想するときのわくわくは減ってしまったけど、わかることによる感心や喜びは増えてきたように思う。これまでの毎日の積み重ねで、楽しめるものは増えた。群像劇を観ると誰に感情を預けようか考えるのに忙しくなるくらいに。
同時に世界がとっても複雑だということがわかってきた。上か下か、右か左か、そんな簡単に世界は攻略できない。正義はいっぱいあるようです。大学生の頃は自分の正義を周りに押し付け過ぎていたなぁと今は反省している。
僕はこれからも世界や人の複雑さを受け入れながら、ずっとたくさんのことを知り、わかり、想像していくだろう。不感症になったのではない。もっとわかるようになっただけだ。
恐れるな、諦めるな
僕は人間は善でも悪でもなく「弱い」と思っている。易きに流れる性質がある。世界の複雑さにぶち当たったときに冴えたやり方を見つけ出すのは困難だろう。時に考えることを止めてしまう人もいるだろう。それも生きる上で悪いことじゃないと思う。けど僕はあがきたい。あがき続けたい。難しい問題に頭を抱えたり、たまに理不尽な目に遭ったりするだろうけど、来年にはいい感じにできるだろうと根拠の無い自信を持ち続けたい。
痛みや失敗を恐れて欲望を捨て
人と関わらないことが大人だなんて私は思わない。
痛みや恐れを超えながら道を歩んでいく。
それが人間の大人じゃないかな。
「月曜日の友達」(著 阿部共実)より土森緑の言葉
そのためには変化を厭わなかったり、享楽をほどほどにする必要がある。一方で弱い人間であることを受け入れる寛容さも必要だ。大人になることは社会的な人間としての誠実さを手に入れるための戦いなのだ。
数年前に「ニーバーの祈り」に出会った。尊敬する人が大事にしていた祈りだ。
神よ、変えることのできないものを静穏に受け入れる力を与えてください。変えるべきものを変える勇気を、そして、変えられないものと変えるべきものを区別する賢さを与えて下さい。
力を上げてもっと変えられるものを増やしていきたい。複雑な世界にいいようにされるなんてまっぴらごめんなので、自分が作用できる部分をちょっとずつでも増やしたい。この祈りの一節は僕を奮い立たせ、顧みるための旗になる。
大人になるということ
知ること、わかること、想像すること。それらを重ねるのが大人になることだ。特に最後の「想像する」が大切で、「知る」も「わかる」も最終的に「想像する」ために心に溶かし入れるものだと思う。そして想像するのは、「強く優しくなる」ためだ。より複雑な問題を前に向かわせる強さと、より多く深く誰かの幸福を望む優しさ。それらをちょっとずつ鍛えていくことが僕が大人になるということだ。大人はグラデーションだ。
ユートピアは存在しなくともめざすべき世界であることに間違いはない!!
「ザ・ワールド・イズ・マイン」(著 新井英樹)より由利勘平の言葉
大人になるって確かにそれまでとは変わっていくことだけど、決して悪くなっていくことじゃない。良くなっていける。ギターを弾いて指の皮が硬くなるのは、痛みがわからなくなるという悲しいことじゃなくて、いっぱい練習できるという嬉しいことなんだ。